昭和五十二年十二月二十五日 朝の御理解
御理解 第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたとい うことはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば 、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、 神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」
まず、神恩に報謝するということを、まず信心をさしていただきますと、教えてもらいます。また、自分というものが分かれば分かるほど、自分の行(おこの)うておることの、おろそかで、そしてお粗末であることに気付かしていただくと、お詫びをしねばならんことも教えていただきます。けれども私どもの心の底には、それでもやはり願わずにはおれないというものから、信心が大体成り立っておるわけです、ね。自分が、いよいよ分かれば分かるほど、ほんとにお粗末な自分であることの、ま、謙虚な姿勢、お詫びが必要である。ほんとに信心をさしてもらえば、今まで気が付かなかったとこに、大変なおかげを受けておることに気付かしてもろうて、お礼、所謂、神恩に対してお礼の心が自ずと頂けてこなければなりませんし、同時に、そのお礼を申し上げねばならないほどしのおかげに対して、報い奉るという心がでけてこなければならない。けれども私どもの、いうならば命の底にです、ね、助かりたい、いうならば幸せになりたい、いうならば願いというものが、やはり願わずにおれないということにもなってくる。
最近、そこを合楽では、お礼も大事、お詫びも大事、けれども一番有難いのは、その願わずにはおれないということ。それも天地の親神様のお心というものが分かれば分かるほど、いや、親神様である、私どもがその氏子であるということが分かれば分かるほど、親子のかかわり合いということが、もう密になればなるほど、いわば願わずにはおれないということを、最近は、合楽では教えていただいておるわけであります。
だから、こういう時に詫びねばならない、こういう時に願わねなければならない、こういう時に改まってお礼を申し上げなければならない、といようなことをです、ま、教えていただくわけですから、果してそういう時に、詫びができる、またはお礼ができる、または願わせていただいておるかどうか。習わせていただいておることを迂闊にして、もう分かりきっておることだけれども、それがでけんでおかげが受けられないというようなこともあるように思うんです。
先日、若先生が、あれは電気?ああ電話代じゃったか?「電話代が今月は十二万もきとります」とこう言う。いつも、まあ多か時で、二万かそこら、三万からしいです。「どう、誰がそげんかけよるやろうか」と、ね。去年でしたかね、月に四五十万ずつ、払うんですよ、この燃料代を。電気代が何十万。元は六七万で済んだんですけど、この頃は、ずっとそのやっぱ値段も上がったんでしょうが、もう聞いてびっくりするほどなんです。ね、例えばそういう時の、受け方、頂き方という、所謂「誰がそげんかけよるじゃろうか」と、と言うのでなくて、例えば電話代の十二万ずつの、払わしていただけるということがね、実は有難い。電気代が何十万、燃料代が何十万、「はあおかげ頂いたもんじゃあるな」と。とそのことをそんな風に思とりましたら、『紅白の鏡餅』を頂くんです、ね。
大阪辺りの、或る偉いお徳を受けられた先生が、「俺んところの教会が御本部参拝をしたら、金光町の商品が干上がるくらいにお土産でんなんでん買うて行けけ」とおっしゃったそうですね。「わあ、どこどこさんの、今日はお参りだから、さあ仕入れにも行っとかにゃならん」ね、と金光の商人が言うくらいにです、ね、いうならばお土産もんでも買うて帰れるくらいに、まあおかげを頂けとおっしゃったんですね。また、九州の、まあ或る偉い先生がおっしゃった、ま今の、今のまあ分かりやすく言葉で言うならばですね、金額で言うならば、ね、「お供えを、お前、千円ぐらしかせんどいてから、お土産ば二千円からも三千円からも買うてきちゃならん。自分のお供えよりか沢山のお土産を買うちゃならん。お供えはちょこーとばっかしで、てんで後ろ前からごとお土産を買うて行く。そいうことじゃ神様にご無礼になる」と言うて戒められたということです。
しかし、ほんとにもう極めた上にも極めた先生方の言葉っていうものは素晴らしいですね。皆さん聞いとってから、どっちも素晴らしいと思うでしょう。合楽の人ならそうだと思うんです。どっちも素晴らしいです。ね、「うちの教会がさしていただいたら、ね、金光の商品が干上がるぐらいに。あちらの教会がお月参りの日には、金光の商人が、もうそれこそどっさり仕入れをして待つぐらいなおかげを頂けよ」と言われた。さすがに大阪辺りの、いわば願いの信心が、もうそこに躍如としてますね。ね、また九州で沢山の人が大徳を受けられたという先生は、ね、「お初穂に、お前、千円ぐらいしかせんどいてから、お土産を二千円からも三千円からも買うちゃならん。お初穂以上のもんをお土産にしちゃならん」と、もういうならば始末倹約を、いうよりゃ神様の御物ちゃあお粗末に使うちゃならんということでございましょう、ね。どちらを聞いておっても、やはり神様が喜びなさるじゃろうなあ、金光大神も喜びなさるじゃろうなあ、と思いますね。
税金が来る。どうぞ税金が安なりますように。ね、今年、千円の、例えば税金じゃったら、来年はどうぞ二千円の税金が納められますように。私はそういう願いの信心、最近言われる願いの信心はね、そういう私はその、まあ紅白の鏡餅ということは、赤のいわば信心を願いの信心と受け取りました。ね、ほんとに至りませんためにという、ほんとに僅かばかりのお供えしかでけません、ね、そこに私はお詫びの信心が、白の、だから信心にはそういう、ね、紅白の鏡餅が一重ねなっておるような信心が、だんだんでけなければならんと思うですね。
けれども素晴らしいでしょう、ね。電話代が今月は十二万円。そら誰が使うたか、誰がそげなこと、【 】そげないらんことに使いよるじゃろか、いや、いらんこっちゃない、やっぱ必要なから【 】ちがいはない。そんなにいらんことにかける筈はない。何かそこには用事があるということは、いわば用事繁多であるということは、繁盛しておる印(しるし)である、ね。十万の電気代を払うよりも、五十万の電気代を払うたほうが有難いのである、ね。それこそ、寒い寒いと言うて凍えておるよりも、暖かにして、そして沢山の燃料代を払わしていただけれるということが有難いのである。だからそういう時の、自分の心の使い方ですね。どう使うかで、そこにおかげが決まるんです。
私は燃料代を五十万も使うという時には、「ほんとに素晴らしかなあ。合楽もおかげ頂いたもんじゃあるな」と言うて、お礼を申し上げました。ところが先日の若先生が言う、その、あの電話料が十二万も払うと言うた時には、誰がかけよるじゃろうかと思うたのが、やっぱ始まりでした。いらんことかけよるとじゃないじゃろかと。ね、そして、ま、ちょっと考えさしていただくとです、ね、そこんところが、詫びるところは詫び、願うとこは願い、お礼を申し上げるとこはお礼を申し上げることが、ほんとにでけた時が、私は神様の願いに、いや、日頃習うておることが活かされた時だという風に思うんです。
私どもが、いうならば願いの信心を、まあ、今こうして頂いておる。願わずにはおれない、ね。そこで合楽が御本部参拝さしていただいたら、そりゃまあ微々たるもんですけどね、けれどもほんとに沢山お土産でも買って買えれれるように、ゆとりのあるおかげを頂きたい、ね。けれどもそう願わずにはおれないと同時にです、ね、せめてお土産を買うぐらいなお初穂はでけるようなおかげも頂きたい、ね。皆さん、どんな風でしょうかね。
この辺のところをです、私どもが日頃習うておる信心を活かしてね、お粗末にもならない、ご無礼にもならない、それでいて神様に喜んでいただくような、ね、沢山なお土産でも買うて帰れるようなおかげを頂きたい、ね。かと言うて、なら電気よりも、もっともっと使うたがよい、燃料なんかでも、もっともっと、その五十万払った六十万でも七十万でも払えるようなおかげを頂きたい、と言うその内容がです、ね、お粗末になっておって、ご無礼になっておったんではです、ね、願いの信心は、もう根底から崩れることになるです、ね。また、お礼の信心と言い、お詫びの信心と言いです、ね、お礼を申し上げねばならんところに愚痴っておったんではです、ね、如何にお詫びをしたところで、それはほんとのことになりません。もう実にデリケートと言えばデリケートです。
その辺のところがです、ね、私は思うんですね、九州の先生が言われる、いうならば御物として大事に頂かしてもらうという行き方、大阪辺りの偉い先生が言われる、ね、それこそ御本部参拝したら、ね、金光の商品が、今日はどこどこの、また事実素晴らしいですね、今日はどこどこの月参りと言うてから、も先生が、もうとにかく始末倹約しなさるところでは、信者もやっぱり使わんそうです。だから金光にお金が、「ああ、あちらの御本部参拝なら、もう大したことない」という風に言うそうです。けれどもどこどこの教会のという時には、もうやっぱ手ぐすねひいて待っとる。まあ、沢山売れるって〈やつです〉、ね。
だからそのところのです、いわば兼ね合いが、私どもの日頃習うておる信心をです、によって工夫もせんならん、練り出しもせんならんところじゃなかろうか。私は思う、税金が高かった、ね、今年千円納めたならば、来年な二千円でも納められるようなおかげを頂かして下さいというような、いうならば勢いのある信心、ね。そしてその中身がです、「あそこも至りませんでした。ああ、ここもご無礼だった。あそこは、いわばおろそかなことであった」というようなところにも、いわば正真、気付かせていただくような、ね、ま私は欲っぱりですから、その両方がね、いうならできるような一つおかげを頂きたいと思うですね。どうぞ。